受験勉強について
昨日、滑り止めの私立の合格発表があった。
私はSとAとBの三つを判定してもらったのだが、Sに受かっていた。
Sの偏差値は大体63か4ぐらいらしい。
1500人ぐらいのうち、前期でSは25人、補欠みたいなのも合わせて大目に見積もって60か70人ぐらいってところだろうか。
嬉しいことは確かに嬉しいのだが、あまりそこまで大喜びとはいかない。
そもそも私はAに行きたかったし、Sは挑戦してみただけだから最初から受かるとも思ってなかったし、Sだと1日7時間授業なんてのがあるし、そこそこ頑張ってそこそこの点を取ることを目標にしている自分としては非常に面倒くさい。それに学業特待取れなかったから高くて私立なんて行けないし。
というかそもそも偏差値63って高いのか?友達は66の高校受かったって奴いるし、70ぐらい目指してるような奴もいたし。
60そこらってそこまで高くもないんじゃねって思う。
うちの学校の社会の先生は本人曰く「受験勉強のプロ」らしいんだが、その先生が言うには「受験勉強の勉強時間は10の位を略して数える」らしくて、1時間の勉強って言ったら11時間勉強したってことらしい。
正直言って頭おかしいんとちゃうか。そんな1日十何時間も勉強してたら頭いかれると思うんだが。
そもそも自分は受験1か月前から計算したら多分1日30分ぐらいしか勉強してないし、そこまでしていい高校入って何になるんですかね。
私の第一志望の公立は偏差値58で滑り止めより低い。それを言ったら66の奴にそれ滑り止めって言わないと思うって言われたけど、高校とか大学ってのは確かに進路も大切だけどさ、一番は楽しいかどうかじゃないん?
そりゃあ行きたい高校が難しいから勉強するってのはわかる。でもさ、少しでも上の高校行って上の大学行くってさ、価値観なんて人それぞれだからとやかく言うつもりはないけども、寂しくないかね。
受験する高校を大学の進学実績だけで決めるぐらいならさ、中学とか小学校の時点で受験して私立行けばいいじゃん。金が無くて公立しか行けないなら、凄くいいところいって中の下ぐらいでやるよりもそこそこの高校でトップになって推薦獲るとかいくらでもやり方はあるやん。
それをまるで偏差値いくらより下の奴はゴミクズみたいな考え方をする人ってのはきっと自分がいくら勉強してもそこそこまでしか行けなかったから自分より下を見下して自分の努力を何とか認めようとしてるんだろうなと思う。そしてそんな話を聞くたびにうちの親が学歴コンプでなくてよかったなぁと思う。
まあこれクラスの友人の話なんですが。
話は変わるけど最近倉橋ヨエコがすごい好き。依存症とか人間やめてもとか大好き。
やっぱり好きなことして楽しければそれが一番だよね。今日はそう思った。
過去問の解説について
今日、某私立高校の過去問をやっていた。
そのうちの数学の問題の一つが意味がわからず、解説を見た。
その問題を書いておこう。
1、2、3、4、5の数字を一つずつ書いたカードが二枚ずつ合計10枚ある。このとき、次の問いに答えよ。
この中から3枚取り出して並べ、3ケタの整数を作る。作られた整数の中で同じ数があれば1個と数えることとすると、3の倍数となる確率はいくつか。
これに対する解説が以下のとおりである。
各位の数がすべて異なる3ケタの整数は5×4×3=60通り作られ、112、121、211のように同じ数を含む3ケタの整数は3×5×4=60通り作られるから、全部で120通りとなる。このうち、3の倍数は、(1、2、3)、(1、3、5)、(2、3、4)、(3、4、5)で作られる整数がそれぞれ3×2×1=6通りずつあり、(1、1、4)、(2、2、5)、(4、4、1)、(5、5、2)で作られる整数がそれぞれ3×2×1=3通りずつあるから、求める確率は、120分の6×4+3×4=10分の3である。
おわかりいただけただろうか状態である。さっぱり意味が分からない。
各位の数がすべて異なる3ケタの整数が5×4×3で求められる理由はわかった。
まず1枚目に引くカードは1から5の5通り、次に2枚目が1枚目と違うカードになるのは4通り、その次に3枚目が1枚目と2枚目と違うカードになるのは3通りであるため、5×4×3になる。
それは理解できる。問題は次だ。
112、121、211のように同じ数を含む3ケタの整数の求め方が3×5×4になるのがわからない。3×5×4の3は何を意味しているのかがもうわからない。そう親父に聞いたら、シャーペンとルーズリーフの端っこを使って一緒に考えてくれた。親父がこれをやったのはもう30年以上前だというのにである。ありがたいことだ。
その結果、初めの3はまず1枚のカードを引いた場合、次に同じ数のカードを引くか違う数のカードを2枚引く場合しか同じ数を含む3ケタの整数を作れないため、同じ数の整数が出る場合と、違う数2枚を引く場合の3通りで3という数が出る。
次の5は、上にあげたものは初めの1枚のカードの数によって結果が変わるため、初めのカードの数が1、2、3、4、5の5通りなので5。
最後の4は、1枚目のカードの数以外の数で同じ数を引くのは4通りであるため4。
それによって3×5×4という式が出来上がるというわけらしい。しかしあまり自信はないので、火曜日に数学の先生に聞いてみようと思ってる。
そんなことよりも、だ。
そもそもこんなに悩んで30分ぐらい頭を抱えていたのは、この過去問の解説が解説ではなくて途中式にしかなってからである。問題の答えの解説ではなくて、解き方の解説を乗っけてくれと思う。
問題の答えの解説っていうのは、ただの途中式を言葉を交えて書くもんなのだろうか。
こういうものは、解き方の解説が一番求められているんじゃないのか。
どうしてその式になるのか?そこでどうしてその公式を使うのか?そういうことが書いてないと、問題集とその解説としては役に立たないと思う。
答えの解説を書いておくだけでは、暗記するためにしか使えない。そもそも答えの解説だけを見て理解できるような人なら問題集なんて買わんだろうに。精々こんな問題が出るんだね~ぐらいにしかならんでしょう。
問題集を買って解く人は、実際に試験で同じ解き方の問題が出たときに解けるように解いて理解しようとするのではないだろうか。
それなのに解説が理解できないんじゃ解説としての意味がない。
せめて途中式でなくてもう少し詳しい解説を乗っけてほしい。解説の内容が大雑把すぎる。
もうね、出来ることなら今すぐにでもこんな問題を作った人をぶん殴ってやりたいと思う。あとこの問題集にこんな理解しがたい解説を乗っけたやつも正座させて小一時間説教してやりたい。そのあとぶん殴ってやりたい。
問題集の解説なのにいくらなんでもこれはひどすぎる。今日はそう思った。
ところで、この問題と解説ってこういうところに乗っけてもいいもんだったんだろうか。一問だけだし少しばかり言い方とか変えてあるし、本の名前とか書いてないしそもそもこんなところ見てるような人もいないだろうしたぶん大丈夫だよね。文句とかあったらこの日の記事ごと削除すればきっと大丈夫だよね。ここにこれを乗せることが無断複製にあたるかどうかで言ったら多分限りなく黒に近いグレーだろうけど、文句あったらすぐに消すからきっと大丈夫。うん。問題ない。
1月13日追記
親父に聞いたところ、どうやら過去問の解説は大体大まかにしか書いてないそうだ。
親切じゃねえなと思ったが、詳しい解説を見て理解するんだったらもっと復習用のしっかりした問題集を買ってきた方がいいらしい。むう。仕方ない。
夜の賢者タイムについて
夜はなぜかいろいろなことに思案が巡る。
ほとんどは、というか全てどうでもいいことなのだが、日記に書くようなこともだいたいは夜に思い付く。
専ら、風呂に入っているときに思い付くことが多いが、なぜかはわからない。
そのほかには、帰る途中に友達、主にK君と話しているときに思い浮かぶ。
ついこの間は、心の中にいる自分という人格の二面性についてと、精神的に孤独であることについてを話した。
そのほかにもいろいろなことが思い浮かぶが、ここ最近の自分の中での一番のヒットは独り言を言う癖についてだろう。
どうも自分には独り言を言う癖がある。この日記も言ってしまえば独り言を書き連ねているだけのものだし、風呂とかではよくブツブツ呟いている。
なぜだか深く考えたことはなかったが、この独り言はだいたい自分が考えている事を呟いている。
つまり自分は、自分の考えていることを呟く癖があるのだ。
なぜか分からなかったが、自分の考えたことを口に出してみないと気が済まないのだ。
自分の考えは、口に出さないと存在しないような気がしてしまう。
考えていることは、考えているだけでは存在したとは言えない。それを口に出して初めてその考えは存在するのだ。
つまり、言語化するまで思考は存在しないという風に自分は思っているから自分は独り言をつぶやくのだ。
そんなことをこの間K君と帰りながら話したら、訳が分からないと笑われてしまった。
このようなことを毎日考え、呟いて忘れてまた次の日を過ごす。
この日記は、呟いたこれらの事を忘れないために書いている。
そして、その内容の大半は、この夜の賢者タイムのうちに考えるのだ。
不思議なこともあるものだ。今日はそう思った。
一人称と三人称について
男で一人称わたしはおかしいのだろうか。
学校では俺だが、こうして家にいるときは一人称が私である。
他にも、~だろうかを~かしらねと言ったり、思わなかったを思わなんだと言ったり、どうも日本語が変な気がしてならない。
オネエ口調とか言われるのは嫌だし、かといって治せそうもない。
この間姉に聞いたら、面接とかの正式な場では僕や自分より私の方がいいそうだ。
そして、三人称である。
姉はお姉さんと呼んでいる。
祖父母はじいちゃんばあちゃんと呼んでいる。
父は親父で、なぜか母はママ呼びなのだ。
私は思う。将来結婚して子供ができたら、ママパパ呼びは絶対にさせない。
正直言って、15にもなってしかも元柔道部の体のでかいおっさん呼ばわりされるような奴が母親をママってのはないんじゃないか。
はっきり言って気持ち悪い。客観的にみるとキモイ。
しかし、きっかけもタイミングもなく、昔からの呼び方が定着してしまったのだ。
どうにかして直せないものか。
自分で書いてて悲しみと吐き気が込み上げてきたので、もうこれぐらいにしよう。
しかし、読み返してみるとどうも細かいことでうじうじ悩んでいるのは女々しい気がする。
本来自分は自虐的で根暗で無気力でネガティブでネチネチと細かいことを気にする女々しい野郎なのだ。
それを学校や人前ではなるべく明るい真面目な活発な奴であるように演技してるからこうやって家で持ち前の根暗さを発揮するのである。
しかし、たまに演技を本物と錯覚してしまうこともある。
というか、演技してる自分も確かに自分の一面なのだ。
どうも内と外でキャラが違いすぎる気はするが、相反する二面が確かに自分の中にはある。それも沢山である。
だから、今の班の班長のU君(中性的な顔立ちで、運動神経は良くないが足だけは速い、真面目で品行方正、容姿端麗、ハンカチティッシュ常備、ファンシーな小物大好き、水筒とかも常に持ってる、細かい気配りが得意)
の事を女々しいと思う自分がいる一方、それよりももっと欠点の目立つ自分が人様のことを偉そうに意見できるものか、と思う自分もいる。
ああ、なんだか愚痴日記になってしまった。いつの日かこれを見返したときに笑い飛ばせる自分であってほしい。今日はそう思った。
学校行事で歌う合唱曲について
今日、三月の予餞会で歌う合唱曲の楽譜が配られた。
どんな曲かと見てみれば、「桜ノ雨」である。
聴いたことがなかったので、家に帰ってからggったところ、ボカロの曲らしい。
いくらなんでもそれはないんと違うか。
一応後輩たちに向けて歌う曲で、しかも送り出してもらう三年生が、
ボカロっておま。
ボカロが悪いってわけじゃないが、もう少しTPOっぽいものを考えられなかったのか。
もっとふさわしい曲はいくらでもあるだろうに、なぜよりにもよってボカロ?
しかも、聞いてみたがあまり好きなタイプじゃない。
狙いすぎてて寒いっていうか、安っぽいというか、
とにかく聞いてられない。
聴くだけでもこっぱずかしくなってくるのに、これを歌えと申すか。
さらに、歌詞の最後を見てみたら、なんか英語書いてあるし。
しかも一単語とかじゃなく一文だし。いや、四つあったから四文か。
これどう歌えっていうのかと思ったら、まさかのカット。
カットするぐらいなら最初から載せるなよと。
今どきの小中学生は卒業式でボカロ歌うらしいが、ボイコットでもしようかしら。
合唱で歌謡曲歌うのもあまりいい気分しないが、ボカロとかもっとあかんでしょ。
歌謡曲もまだそれっぽいバラードとかならいい。ポップスとかもうね。
それ単純にお前らが歌いたいだけだろっていう。エグザイルとかAKBとか。
もっとふさわしい歌があるのだからそれを歌うべきだ。今日はそう思った。
テスト勉強について
今日、クラスの女子が大声で話していた。
聞こえてきた内容は、模擬試験の事だった。
どうやら今度、模擬試験があるらしい。そのために勉強をしなければならないそうだ。
私は思う。模擬試験なんだからそこまで勉強しなくてもいいのではないかと。
模擬試験は自らの実力を知るために受けるものではないか?
仮に模擬試験でいい成績をとれたからといって、それが内申点に影響を与えるでもないだろう。
それに、一年二年の内容を復習するならともかく、三年の内容なんて覚えていない方がおかしいのではないのか。百歩譲って夏休み前の内容ならまだしも、つい2,3か月前の内容の復習をするのはいかがなものか。
そもそも、授業をきちんと聞いて予習復習をしていれば、だいたい頭に入っているだろう。予習復習が面倒でも、真面目に授業を聞いていればいい成績が取れるはずだ。
事実、私はあまりテスト前に勉強をしなくても全体の上位二割程度にはいつも入ってる。それより上を目指すならしっかりと勉強をしなければならないだろうが、授業を聞いているだけでも5教科400点は取れるのだ。
それをせずに、授業中は友達に向けて手紙を書き、家では友達と夜中の1時までLINEをしたりメールをしたりTwitterを見たりして、いざテスト前に慌てて勉強をするようじゃあいい点も取れないだろう。
そのくせしていつも成績がー内申点がーと喚いているのは最早滑稽ですらある。
それは置いておいて、模擬試験についてである。
どうやら、塾に入っている人は半強制的に受けさせられるようだが、わざわざ金を払って勉強して、その上課題もテストも多いというから馬鹿馬鹿しい。
塾の課題を片付けるために授業中に時間をとってくれるはずがないのだから、勿論自分の自由時間を削って終わらせることになるわけだが、いったい彼女たちはなぜそこまでして勉強をするのだろうか。
そもそも、塾に行ったからといって成績が必ず上がるとは限らないし、塾に行くのをやめた途端に成績が下がるはずもないのである。
私は、塾とは自分で勉強の仕方が分からない人の為に家庭学習の仕方を教えてくれる所ではないだろうかと思っている。
あるいは、夜の学校かもしれない。授業を受け、課題が出て、分からない所は先生に聞く。まさしく学校と変わらない。違うのは、時間と先生、生徒人数ぐらいだろう。
分からない所は学校で先生に聞くなり、親や友達、知り合いに聞くでもいいだろう。課題なら、ワークを進めればいいだろう。そういった自主学習は家でも出来る。
それをわざわざ塾にいってやるんだから無駄なことだと思う。
しかも、知り合いには塾に行きたくないけど無理矢理親に行けと言われて仕方なく行っている人もいる。
行きたくないなら辞めればいいのに。そう言ったら、それができたら苦労はしないと返された。真面目に授業を聞いて理解すれば、自ずと成績は良くなってくるはずだし、そうなれば塾に行かなくてもいいだろうに。そう返したら、嫌味かこの野郎と言われた。しかし、自分にはそうするしかないようにも思われる。
授業内容がよくわかってない人が塾に行っても、復習しかできっこない。そして、復習するだけなら家でも学校でもできる。予習するには、前の授業で学んだことをしっかりと理解していなければならないが、理解しきれなかった時の為に復習をするのだろう。
彼に必要なのは、自分が分からない場所がどのあたりかを知ることと、そこを復習することだと思う。そうして初めて、成績が上がるのではないか。
まあ、自分で考えても、それができていたら苦労はしないように思える。
結局の所、分からない所を理解できるまで繰り返し練習して、そのうえで授業を真面目に聞けば、塾もテスト勉強も必要ないのではあるまいか。今日はそんなことを考えた。
苦手な教科の勉強について
最近、学校での勉強って意味あるのかとか考えてしまう。
果たしてこれは一年遅くやってきた中二病なのか?
中学校で学んだことは、精々国語と英語くらいしか将来使わないのではないかと思う。
国語だって、使うのは漢字ぐらいだろうし、英語も英単語と文法ぐらいしか使わないんじゃないか?
あ、地理とか技術家庭、保健体育はどこかで使うかもね。
でも、そのほかの事って大抵はテストの中にしか出てこないんじゃあないか?
そりゃあ将来仕事で使うのかもしれないし、どんな仕事に就くかもわからないから、今のうちから将来のために勉強しておくのは悪いことではないかもしれないが。
将来の可能性を広げるためにいま勉強をするらしい。
しかし、広く浅く学んで選択肢を増やすより、狭く深く学んで一つの選択肢の可能性を上げる方がいい気がしてならない。
他の事も学ぶのははっきり言って苦痛だし、無駄な感じがしてならない。
苦手な教科ってのは誰にでもあるらしいが、苦手な教科を克服して欠点を埋めるのが今の学校での勉強なんだろう。
つまるところ、今の勉強は良く言って万能人間、悪く言えば器用貧乏を量産しているわけだ。
確かに替えの利く便利なパーツを沢山使った方が、替えの利かない部品ばっかりより修理が楽でいいけどさ。
せめて中学校から理系文系くらいには分けてほしいよね。
小学校からそれをやっちゃさすがに日常生活に支障をきたすだろうけども、小学校で一番の基本を学んだら、後は各自自分の得意な方向に向けて進めばいいのにと思う。
そうすれば、数学の苦手な文系は公式を覚える時間で語学力をつけれるし、逆に作者の気持ちなんて知らねーような理系は、興味のない本を読む時間で実験の一つでもできるだろう。
中学から文系と理系に分かれてたらいいのになあ。今日はそんなことを考えた。